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CON・PER・CEPTUAL
コンパーセプチュアル #2
脳においしいい作品たち 写真篇

2012年11月26日(月)〜12月8日(土) 11.26mon 〜12.08 sat
15:00〜20:00 最終日〜18:00
closed on Sunday

レセプション・パーティー 12月1日(土)17:00〜



菅間圭子

大和田登

SYUTA(三友周太)

園田昭彦

森下泰輔



(各作家詳細につきましては右サムネールをクリックしてください)



「コンパーセプチュアル」とは、コンセプチュアル[con・cep・tu・al /a. 概念の;概念芸術の]と、パーセプチュアル[per・cep・tu・al /a. 知覚(力)の, 知覚のある]という単語を合成した造語です。


■シンディ・シャーマンの出現以来、現代美術の世界では筆や絵の具のかわりに普通に写真機が用いられるようになった。

しかし、いわゆる写真芸術とこれらの写真作品との違いは明白に存在している。

それはデュシャンの頃同様、ある種の観念を表象するために写真機を用いるという不文律だ。

今回の展覧会では5人5様の表現を見せているが根底にあるのは何らかの観念を表出させるために写真機を用いているといった点で共通している。そのことが、逸脱してゆく現代アート史を織り込んだ後の写真表現と二重写しになっていることを確認できるだろう。





「コンパーセプチュアル」における写真の機能と概念
水野英彦(美術評論家)

今回の「コンパーセプチュアル/ CON・PER・CEPTUAL」は写真がテーマだ。それも現代美術における写真に特化した表現が主題だという。写真が美術の枠に入り始めた最初は、ダダの頃に遡る。マン・レイあたりからか。マン・レイはデュシャンの女装写真を撮影し、それ自体がデュシャンの作品となった(「ローズ・セラヴィ」)。このとき写真は外界を映し出すメカニズムというより、ある種の観念を説明するイラストレーションとして採用されたかに見える。

その後写真が美術のコンテクストに再び侵入したのは、60年代に入ってからだ。ジョセフ・コススは、辞書の一部をフォトスタットカメラでコピーし、たとえば「ART」の定義に関する作品を制作した。これもまた、概念を説明するのに、カメラの機能を使ったものだった。だが、写真が本格的に筆やキャンバスに代わって用いられるようになるまでには、まだ数年待たねばならなかった。間にはアンディ・ウォーホル論争があった。アンディは、当時「なぜデッサンをする? 写真のほうが早いのに」といったという逸話が残されているが、彼の作品は写真なのか絵画なのかでよく論争の的にされた。写真を製版してシルクスクリーンで写し取っただけのものがなぜ芸術なのか、との批判を含めて多くの論争を生んだように記憶している。

この時期を過ぎ、現代美術の枠組みは大きく逸脱し始め、シンディ・シャーマンの出現以来、コスプレし、別人格になりきった写真そのものがアート作品として受け入れられるようになる。その後は写真そのものの提出が現代美術の中で自明のごとく氾濫することとなった。リチャード・プリンスは、たとえば、マルボロのポスターを単に複写し、ジェフ・クーンズは妻とのファックを作品として写真で表現してみせた。ここにきて、筆や絵の具のかわりに普通に写真機が用いられるようになった。

しかし、いわゆる写真芸術とこれらの写真作品との違いは明白に存在した。それはデュシャンの頃同様、ある種の観念を表象するために写真機を用いるという不文律だ。

では、今回の展示の作家に言及していこう。コンパーセプチュアルとはコンセプチュアル(概念的)であると同時にパーセプチュアル(知覚的)である作品ということを意味する新造語だというが、この場合、視覚情報が何らかの概念的な思考の発露として定着している作品ということができるだろう。菅間圭子の「'Ready-Made' Phenomena」は、外部の痕跡に脳内にあるアートの因子を見出したときに撮影されたものだ。脳の内部と外部が入れ子状に重なり合っている。大和田登作品は作家本人が「瞬き」を意識しているように、二連の写真の間に微妙なズレがある。実は2次元の写真と人の網膜の機能には実際に差異がある。写真と網膜の間にある微妙なズレを概念的に捉えている作品だといえよう。三友周太は、自家製のピンホールカメラを用い、外の景色とカメラ内部を一体にして定着し、提出している。内部に設置されているQPの影が外界よりもさらにリアルに写りこんでいることは、脳内の認識と外界のありようを示唆していて非常に興味深いものとなっている。園田昭彦は、小林正昭が撮影した死の直前のヨーゼフ・ボイスの高密度肖像写真を扱った小林の展覧会そのものを作品として制作した大判プリントを展示している。撮影行為自体が現象を記録する2次創造だといえるが、それを再撮影することで作品は正にシミュレーションレベルに到達する。そして、園田が自身のミニマルな構成眼によって世界を見ていることを再確認させるのだ。森下泰輔は、京都・奈良で行ってきた「借景」をテーマにしたインスタレーションの写真と、イスタンブールで撮った「借景」概念だけを用いたものを展示している。そもそも写真機の機能自体がなんらかの「借景」を当てにしていると考えるなら、森下の作品の意味はさらに謎めいて感じられる。

今回の展覧会では5人5様の表現を見せているが、根底にあるのは何らかの観念を表出させるために写真機を用いているといった点で共通している。そのことが、冒頭に述べた逸脱してゆく現代アート史を織り込んだ後の写真表現と二重写しになっていることを確認できるだろう。
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