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「Girly 2013 #1」

5月7日(火)〜18日(土)
15:00〜20:00 最終日〜18:00 日曜日休廊
レセプション11日(土)17:00より
19:00より村田いづ実パフォーマンスがあります。

[展示作家]

内田佳那

平岡佐和子

樋口裕子

みさ子

岩清水さやか

李奈珍

夢島スイ

菱沼美香

近藤智美

増山麗奈

村田いづ実(Performance)



2010年に川崎市市民ミュージアムで行った「ガーリー2010」展の時、ガーリーアートの論拠を戦後少女漫画史になぞらえて語った。しかし、漫画→アートのコンテキスト自体、もはや珍しいものではない。ガーリーの本質に関し、まだ他の軸があり得ると考えていた。あれから3年経過した現在、再度、日本におけるガーリーアートの現状を論理的分析しようとしている。
ちなみにガーリーアートとは、女の子の心理を基本とし、その世界観を開示したアートのことだ。そのため、おたくに見る男性からの視線、男性の愛玩の対象としての「カワイイ」とは少し異なる。ゆえにジェンダー以降の作品といえるのだ。たとえば「萌え画」は、同じ「萌え」であっても男性作家が描く場合と女性作家が描く場合では異なるだろう。ために狭義の意味のガーリーアートは今日では女子の手にゆだねられる、とも考えられる(広義には性差をこえて存在し、川崎の時は男性作家のガーリーも交えて展示を行った)。
また、現代美術の最前線とは、「思想」表現であると思う。2Dとか3Dとかの作品形式、もしくは素材ではなくある種の思想を伴っていなければならない。ここでいう思想性とは作者の意志や思考をこえてそのように感じられるもののことである。よって、鑑賞者の側から思想性を感じたとしたなら、それが作品の持つ思想だといってもよい。だからこそガーリーの背景は第三者的に、また歴史的・社会的に捉えられなければならないのだ。作者はただ好きに描いているとしてもだ。

そのことを踏まえ、新しい軸、基軸となるのは作詞家の安井かずみである。つまり戦後和製ポップス(J-POP)史を援用したい。
いまや終戦、もしくは敗戦をひとつのメルクマールとする論旨は、戦後日本論にありがちな自明性を帯びているだろう。
ガーリーは一方では、中原淳一、竹久夢二らにも連絡している。明治をタームとしてとらえれば文学上の女流小説の系譜、樋口一葉あたりもその源流に位置付けることができる。むろん奈良・平安時代からの流れを考えれば、万葉集や紫式部、清少納言までさかのぼることもできる。が、ここで、同時代性としてのコンテンポラリーに座標を取り、"What's new"としての現在性・非歴史性をあえて問題にしてみよう。それはまさにPOP Art概念そのものとクロスすることとなる。あのアンディ・ウォーホルがいった、「毎日が新しい日」「それはきらきら輝いているんだ」といった生きることの人工的なまばゆさ、あるいは自然に対立するちょっぴり偽の高揚感、それこそがPOPの本質だとするならば、ここでアート以前にこの感覚にいちはやく到達していた安井かずみをサンプリングしてみる必要があった。
安井は1958年から外国カバー曲の訳詩を始めた。62年「レモンのキッス」では、「恋をした女の子、誰でもが好きなこと(中略)甘いレモンのキッス」と読んだ。半世紀経った現在ではその楽曲は消去されまるで純粋詩のように安井の言葉だけが自立して聞こえる。アメリカ隷属文化の象徴、レモネードの甘さとキスをいわば爽快感を演出しつつ表現しているが、反面人生の救いがたい暗さ、孤独感も同時に挟み込んでいるだろう。彩度、コントラストが非常に高いのだ。今日の女の子アートでは、こうしたPOPな人工的な感覚と夢見るようなイメージが脈絡なく交差していて、GHQ占領期によって確立されたであろう戦後日本の日常がアプリオリに表現されはじめたといった感を強くする。
それらは俗物的表層性を通過し、生きていくことの本質(たとえそのことをどんなに否定的にとらえたとしても)をも提示しているようなある種の深みに至ったと思える。今日、ガーリーの芸術的解釈は美術史ではなくむしろこうしたかつてのサブカルチャー、とくに戦後和製ポップス(J-POP)史から読み解くことが可能になったのだと思う。

水野英彦(本展ディレクター)



























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平岡佐和子
樋口裕子
作詞・安井かずみ
「レモンのキッス」
(62年)
近藤智美
増山麗奈
菱沼美香
李奈珍
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